<ブギウギ ・東京編>6週~10週の解説/考察/感想まとめ【※ネタバレあり】
第50回のレビュー
冒頭、茨田りつ子(菊地凛子)が「別れのブルース」を歌っています。第49回でほぼ15分、コンサートシーンだったのが、回を跨いでまだ続けるという、なかなか攻めた構成ながら、やっぱり「別れのブルース」がないとはじまりません。こうしてスズ子(趣里)と茨田の合同コンサートは盛況のうちに終了。帰り道、おでんの屋台に梅吉(柳葉敏郎)がいて、スズ子はその横に座ります。さすがの厚かましい小夜(富田望生)もここは遠慮します。
屋台も、戦争の影響か、大根しかなく……。戦争になったら景気がよくなるんじゃなかったのでしょうか。
「おまえの歌、聞いてたら 正直なってまう。ごまかされへん」と、「大空の弟」が染みた梅吉。六郎(黒崎煌代)の死を認め、覚醒した意識で、香川に戻ると決意は固く。いつまでもスズ子に甘え、情けないままでいないように。でもたぶん、変わらないと思いますが。
気まずかったふたりがようやく仲直り。引っかかっていた、実の子ではない問題も、ここで解消します。とはいえ、実の子ではない問題を、当事者同士がダイレクトに語り合いません。あくまでもさりげなく、事実は少し曖昧にぼかして、言わんでもわかるという感じ。だからこそ余計に、ふたりの愛情が染みるのです。
第48回で、ふたりが険悪になったとき、「ほんまの娘やないから?」、とつい口走ってしまったスズ子に、「なんて」と梅吉はぎくりとなりました。ツヤ(水川あさみ)と、決して真実をスズ子に語らないと約束していたのに、実はスズ子はとっくに知っていた。梅吉はさぞ、困惑したことでしょう。でも、その件を確認する勇気はない。明確にしたら、まごうことない真実になってしまうから。
だからふたりは、その件について追求しません。第50回の屋台でスズ子は、なんの役にも立たないお父ちゃんがいなくなったら、寂しいのはなんでやろと自問し、梅吉は躊躇なく「親子やからや」と答えます。
ほんとの親子じゃない問題には言及せず、「親子」という言葉を強調するだけで、ほんとの親子じゃないなんて関係ないんだということが強烈に伝わってきます。
1933年に発表されたジャズの名曲「イッツ・オンリー・ア・ペーパームーン」の歌詞には、たとえ紙の月でも あなたが私を信じてくれれば ほんものになる、というような意味の一節があります。
この場面はまさにそれ。
偽物の父娘でも、本物だと信じ合っていれば、その信じる心のほうが、血の繋がりよりも強い。
知っていることを知らないふりしていることも、お互い知っていることをあえて触れないことも、思いやりです。
この場面で流れるのは「イッツ・オンリー・ア・ペーパームーン」ではなく、「大空の弟」のインストゥルメンタルでした。
昭和16年(1941年)の年の瀬、梅吉の旅立ちの日も「ほなな」とあっさり。寂しさを隠しているのでしょうし、離れていても家族と信じていることもあるでしょう。
柳葉敏郎さんが、なんにも成し遂げていない人物を、決定的にダメな感じに演じず、屋台の場面や別れの場面のあっさり加減も、すごくいい塩梅です。熱演しない朴訥さが梅吉には合っています。
※この記事は「ブギウギ」の各話を1つにまとめたものです。
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